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リチャード (コーンウォール伯) : ミニ英和和英辞書
リチャード (コーンウォール伯)[はく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

リチャード (コーンウォール伯) : ウィキペディア日本語版
リチャード (コーンウォール伯)[はく]

初代コーンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall, 1209年1月5日 - 1272年4月2日)は、イングランドの王族でジョン王(欠地王)の次男。兄にヘンリー3世、妹にスコットランドアレグザンダー2世の妃ジョーン神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の皇后イザベラがいる。一時、神聖ローマ皇帝ドイツ王)に擬えられたことがある。
== 生涯 ==
1227年、兄のヘンリー3世によりコーンウォール伯に叙せられる(コーンウォール公ではなく伯である)。コーンウォールの地はの産地であったことから、リチャードは相当な金を有していたらしく富裕であり、フランスルイ9世(聖王)や神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世ともその金銭から交友関係を持った。1233年、兄の王位を狙って、兄の統治に不満を抱く貴族と連合して反乱を起こしたが失敗する。この時兄に反乱の罪を許され、兄の妃エリナー・オブ・プロヴァンスの妹サンシーと結婚することで和解した。
1254年、フリードリヒ2世の次男コンラート4世が死去して神聖ローマ帝国が皇帝不在の大空位時代に入ると、1257年選帝侯による皇帝選挙で、カスティーリャアルフォンソ10世(賢王)と共に次の皇帝候補として推挙されるに至った。この時、リチャードは所領のコーンウォールが金を有することから、莫大な金を使ってドイツ諸侯に自分を支持するように交渉している。そして選帝侯も、アルフォンソ10世よりもリチャードが皇帝としてふさわしいと考え(母ベアトリスフリードリヒ1世の孫娘だったことから、アルフォンソ10世はリチャード以上に血縁関係では次の候補として有力だったが、カスティーリャの国内事情などから皇帝になることは不可能な立場にあった)、リチャードは皇帝として正式に推挙されかけるようになった。
ところが1263年、イングランド国内でヘンリー3世とシモン・ド・モンフォールら反国王派による内乱(第2次バロン戦争)が発生する。リチャードは兄とシモンの仲介役を務めて一度は両者を和解させたが、1264年に再び両者が決裂して戦い始めると、リチャードは兄に従ってシモンと戦う。しかし、1265年ルイスの戦いで兄と共にシモンの率いる軍勢に敗れた上、捕虜として兄と共に捕らえられるという醜態を晒したため、ドイツ諸侯から見放されてしまい、神聖ローマ皇帝としての即位は幻に終わった。晩年には息子ヘンリーも暗殺され(シモンの遺族の差し金であったと言われる)、不遇と失意のうちに1272年、64歳で死去した。
コーンウォール伯は別の息子エドマンドに受け継がれたが、1300年に彼が子供の無いまま没すると、イングランド王エドワード2世(ヘンリー3世の孫)は寵臣ピアーズ・ギャヴィストンにコーンウォール伯爵位を与えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リチャード (コーンウォール伯)」の詳細全文を読む




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